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文久2年閏8月20日(1862.10.13)
【江】彦根藩の京都守護を免ず/
勝海舟、海軍制度改革会議において軍艦配備よりも
人材育成の必要性を主張。

【京】本間精一郎暗殺

■守護職就任
【江】文久2年閏8月20日、幕府は、会津藩主松平容保が京都守護職を拝命したのに伴い、彦根藩主井伊直憲の京都守衛を免じました。

「井伊家譜」によれば、彦根藩は万延元年に京都守衛の内命を受けていたそうです。また、24日には領地のうち、神崎・蒲生の2郡の上知を命ぜられました。

関連:
◆文久2年閏8月1日(1862.9.24)−【江】守護職就任(17)会津藩主松平容保、京都守護職拝命/

■幕政改革へ
【江】文久2年閏8月20日、海軍制度改革の御前会議において、勝海舟は軍艦配備よりも人材育成の必要性を主張しました。

この会議に、軍制取調方は壮大な軍艦配備計画を提出していました。しかし、軍艦奉行並の勝海舟(勝麟太郎)は、これに反駁し、<500〜600年もかかるような遠大な計画よりも、先ず、5〜6名の有志を募って横浜に送り、航海技術を伝習させることから始めるべきである>と意見を述べたそうです。実は、勝は3日前に軍艦奉行並(次官職)に登用されたばかりでした。御前会議に出るのはもちろん初めてだったにも関わらず、将軍を前にして堂々と反論する姿をみて、人々はその「胆力の非凡」さに感じ入り合ったそうです。

<参考>『続再夢紀事』一(2003.10.20)

追記:
海舟の日記によれば、彼に対して「我邦にて軍艦三百数十挺を備え、幕府の士を以てこれに従事せしめ、海軍の大権、政府にて維持し、東西北南海に軍隊を置かんには、今よりして幾年を経て、全備せん哉」との質問があったそうです。海舟は「これ五百年の後ならでは、其全備を見るに到る、難かるべし。且、軍艦は幾年を出ずして整うべしと雖も、其従事の人員、如何の習熟を得べけんや。・・・(中略)いたづらに人員の増多なると、戦艦数隻なるとも、人民、其学術は勿論、勇威彼を圧伏するに足らざれば、真の防禦は立ちがたからん。今、かくの如きの大業を議せんよりは、寧ろ学術の進歩して、其人物の出でんことこそ肝要ならめ」と人材育成を主張したようです。

実は、海舟はその前日、総裁職の松平春嶽に海軍振興はどうすればよいかと聞かれた折に、身分を問わず人材を選抜することが必要だと述べたそうです。しかし、この日、幕府は「幕府の士」を登用する方針を示しました。御前会議で人材登用について述べたかどうかはわかりませんが、大規模な軍艦配備計画への反論は、

関連:文久2年閏8月19日(10.12):勝海舟、松平春嶽に海軍振興のための人材登用の必要性を陳述

■「天誅」(テロ)
【京】文久2年閏8月20日、京都で越後出身の尊攘浪士本間精一郎が暗殺されました。

翌朝、彼の首は四条河原に晒されました。捨て札には薩長土を讒訴し、有志の間を離間した・・・などの告発が記されていたそうです。暗殺者としては土佐藩の岡田以蔵・薩摩藩田中新兵衛の名が挙がっています。

『維新史』では捨て札通りの「裏切行為があったのか、但しは冤罪の下に同志軋轢の犠牲に供せられたのか、此間の事情は甚だ明確ではない」としています。

関連:◆文久2年7月18日−本間精一郎、岩倉具視ら「四奸ニ嬪」排斥を主張

■浪士組創設へ
文久2年閏8月20日、清河八郎は河原子村に着き、その後、同地に3日間逗留して、松平春嶽宛の大赦の上書を起草しました。

同日、清河は故郷の父親宛に書簡を送っています。(時間のあるときに、清河コーナーにUPしますね)

参考>「潜中紀事」『清河八郎遺著』(2003.10.21)
関連■清河/浪士組年表 文久2年@衛士館

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